思考の整理

 

親との関係性について、まずはそもそも親の価値観と自分の価値観の齟齬について言及

親は私がゲイであることを知っている。大学二年生の夏、帰省した際に話してしまった。元はと言えば、どうして私が親に対してこんなに反抗的あるのかという部分で喧嘩していた。私は以前より抱いていた「親への不信感、ゲイを理解してくれないであろうという絶望」を燻らせていたために、反抗的な態度になっていたのだ。喧嘩の途中にあった、親「どうしてそんな態度になってしまうの?私はあなたのことを全力で守りたいだけなのに」に私はついカミングアウトしてしまった。そこからもう4年は過ぎた。

それに対して特にヒステリーを起こすことは少なくなった。それでも、まだ変な言葉を告げられる。

「まだ…その…普通に戻る可能性はあるんだよね?結婚できるかもしれないよね? 私、あなたが結婚して子を産んでくれて、その中で一緒に暮らしていきたいの」

本人はかなり前からLGBTについて勉強してきたと言っていた。それでも所詮そんなものなのだ。これでは変わっていないのと同じだ。変に関係が緩くなっただけ、切りづらく苦しい。私は女性とどうにかなろうとか微塵も思っていない。だからこそのゲイなのであるのだが… それはさておきと言わんばかりに、自己の欲求を何も考えることなく私に告げてくれる。挙げ句の果てには「もう少しで働けなくなる。そのときは一緒に暮らして養ってほしい。」

わかるよ、今の祖母や、過去のあなたの生活を考えれば、きっとそんな寂しさが募り、死ぬときは一人ではなく、これまで共に戦ってきた私に看取られ死にたいのかもしれない。信頼できるのは私だけらしいからな。

だがな、それはできないんだ。あなたが生きてきたその人生、その結果はしっかり自分で取るんだ。どんな結果が欲しいか考え、そのために必要なことをしなければならない。それは決して息子に対してネチネチと「一緒に暮らしたい、養ってほしい」などど言う事ではない。

私は先の発言をし、さらに「たとえお前がどれだけ信用している(その信用さえ怪しい、お前のその恋愛は恋愛なんかではないし)彼氏だろうと別に会いたくない」(この発言の前に「そんなに彼氏が好きなら紹介しなさいよね」と言っています)というような人間にもらった恩を返す必要はないと考えている。ダブルバインドもいいとこだし、私の否定は十分すぎるほどしている。もう疲れたのだ。そんな発言をしてくる人間が死に際私に吐く言葉なんて…

そんな私はどんな結果が欲しいか想像していない。ただ相手の発言が嫌で「あぁ言えばこう言う」をしている。この関係の終わりはどうなるんだろう。双方の死を経て結果がわかるね。ここから先は私のノートに書いておこう。考えられる死のパターンとその結果と。

関係性を切るということはどういうことか、親と、友人と、誰かと。

親である私と縁を切るなんて絶対にありえないんだよ、どこかで繋がっているんだからね。

親はよくこう言う。先の話にもあった通り、私と親は良好な関係性とは言えず、親はキレた時に「じゃぁもう縁きればいいじゃない」と言う。私は私で親に「そんなんやったら関係切ってもいいんじゃない?」と言う。そうすると縁切りなんてありえないと言うのだ(何がしたいのか、本当に意味がわからない)

でも私は多分、縁を切れると思っている。法的な関係を踏んでもなんでもいい、とにかく敵意を向けた人、敵となりうると判断した人との何かをすっぽり消せると思う。てか消したい。

あまり良くないことかもしれないけど、友人の話を少し。

彼は、私同様に親に悩まされている。そんな彼から、親との関係性が少しマズくなった悩み相談を受けた。それに対して私は「じゃぁもう縁を切ってもいいんじゃない?」と言った。

実際、自分で生計を立てられている。親に頼ることなんて何があるのか、実家が太くて政治的に必要な場合か?とにかく彼は別に親を頼る必要なんてないはずなんだ。でも私の縁切り推奨発言に「いや、親とは縁きれないじゃん?」と普通のように言われた。私にとってはあまりに衝撃的だった。こんなに親で苦しんでいて、それでもなお親に気持ちを向けられるのか理解できなかった。できないあまりに、洗脳されているのでは?と疑ってしまうほどに、びっくりして電話口、言葉が詰まった。親だから縁を切ることができない。なんの論理性もないじゃないか。教えてくれ、一体どんな人生を歩めば、傷つけてくる親でもどうにかしたいと思えるのか。私に足りなかったものはなんなんだ。

記憶がある時から、保存されているのはネガティブな記憶ばかりだ。ヒトを理解できずに愛着も湧かず、他人に恐怖し自身が生き残るために必要な行動をとってきた私だ。個であり孤であった。嫌な記憶だな、あいつにアレされなければ私はまだ親を信用できたのかもしれない。残った親に対して「この人の顔を悲しませないように、せめていい子でいよう」なんて大人にならなければよかった。こんな風に人と人との繋がりが薄いごみみたいな人間になりたくなかったな。そしたらきっともっと友人を大切にできたのかもしれない。なんの後悔をしているんだろう。でも、SNSとかで仲良し写真をあげている人を見るたびに「あぁ、こんな人が私も欲しい」と思うし、タコパや旅行の写真を見れば「この中に誘われるような人になりたかった」なんて思ってしまうのだ。

寂しいね。自分がほしい結果を、こんな簡単に考えるのではなく熟慮した上で、それに必要な行動をとらねばならないね。そのために今こうして整理しているのよ。

人との縁・関係をこんな風に思っているから、友人が少ないのかな。誘われることが少ないのかな。寂しさが胸を押しつぶしそうになる日があるのかな。私は人に冷たいのかな。

ブツリと切れる人間関係しか築けない愚かな私よ…

自分の死生観について

自分の命を終えてもいいときはどういうとき?

ブツリと切れるような人間関係しか築けない、人に対してそこまでの気持ちがない、死んだ時にどう思うか思われるのかがイメージできない(正確には重く考えてない)、死は流れの一つである、生きた証なんて別に残さなくたっていい、死んで泣いてくれる人間に気持ちが薄い・信用していない・忘れて幸せになってほしいと思っている、私が生きる価値なんてないんだ。

これまでの艱難辛苦を思い、現状を考え、今後を描いたとき、生きていればよくなるのかなんて思えない。押し潰されそうだ。昔に比べたら理解してくれる友人や、仲間ができ、パートナーまでもいてくれる。それでも、性格・気質の矯正はあまりに遅く難しい。今後の爆発的な回復を期待して枕を濡らすばかりだ。

ひぐらしのなく頃に 解 23話くらいかな

(人の世に何を求めたのか)→「私はただ生きていていいよって」

この感情が私にあれば、な。

 

 

 

推敲してないんだ。整理になっているかな?でも少なくともなんかスッキリした。

じゃぁどうしていけばいいんだろうは、最初のところでも話した通り、自分だけのノートで。

 

パリ、行きたいね。